「圓生とパンダが死んだ日」

「圓生とパンダが死んだ日」

啓(2023年2月8日)

 書庫を整理していたら矢野誠一著の「圓生とパンダが死んだ日」(青蛙書房)が目に付いた。数年前に廃業した近くの古本屋で30年ほど前に買ったことは覚えている。あとがきには著者の世界にいるひと、著者との交遊関係にあるひとの「人物論めいたもの、人物誌、交遊録、そしてレクイエムが中心である」と書かれていた。
 著者の矢野誠一氏については落語を中心として評論活動を行っている人物としか知らなかった。それと入船亭扇橋を宗匠にして小沢昭一、永六輔、江國滋、柳家小三治、桂米朝(いずれも故人である)などがメンバーである「やなぎ句会」の一員であるということと。
 古本屋の雑然とした棚を順に眺めていて、この本に目が止まり買ったのはそのタイトルが理由である。
 1979年(昭和54年)9月3日に上野動物園のジャイアント・パンダ「ランラン」が死んだ。その日は落語家・元落語協会会長六代目三遊亭圓生が死んだ日でもあった。
 新聞各紙は圓生の死よりもランランの死を大きく取り上げ、なおかつ、私の記憶しているところでは、朝日新聞は「パンダが死んだ円生も」という見出しで報じた。違和感を覚えると同時に、なんという見出しを付けるのか、と内心腹が立った。古典落語に深い造詣を有する会社の先輩もこの見出しには怒りを露わにしていた。
 この本の最後に「圓生とパンダが死んだ日」とのタイトルで書かれた8頁の文章がある。著者は三遊亭圓生の死を行きつけの酒場で新聞社からの連絡で知り、依頼により電話口で(当時は携帯電話はなかった)圓生の芸や人となり、さらには自分の気持ちについて話したが、それを漏れ聞いた人が「かわいそうに、パンダが死んだらしいワ」と他の客に囁き、店中に広がった。著者は「ちがうよ、パンダじゃないよ、圓生さんだよ」と訂正するが、「なるほど、流言飛語というのは、こうして伝達するものか」と書いている。
 そして「古今亭志ん生は……脳出血に倒れていらい、身体が自由にならず、不本意な高座をつづけた。……桂文楽は……口演中絶句、『まことに申し訳ありません。台詞を忘れてしまいました。……』の言葉を残して高座をおりていらい、その年の暮に世を去るまで、ついに落語を口にしなかった」と書き、「三遊亭圓生は、芸人としての生涯を、そのピークで終えることができたのだ」と3人の名人の最後を描く。
 圓生の最後の高座が「檜舞台での人情噺の大作ではなく、地方都市の結婚式場で、小噺に毛の生えたようなはなしをして、去って行った姿勢が、芸人らしくて、圓生のために、よかったという思いがするのだ」とし、「きけば奇しくも自分の誕生日であったというではないか」を加える。
「翌朝の新聞をひろげると、パンダの死が報じられていた。……仕方ないこととはいいながら、圓生の訃報よりも、はるかに大きな扱いであるのが、芸人圓生のために、ひどく悲しかった」で終える。
 人を気安く受け入れようとしない姿勢や人一倍名誉欲が強かったことなど明治生まれの無邪気さとかたづけてしまうわけにはいかない複雑さを秘めていたということも書き、三遊亭圓生という人物に対するレクイエムとしている。

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