団塊の秋

団塊の秋

KEI(2019年4月3日)

 久し振りに堺屋太一氏の小説を手に取った。図書館の「本日返却された本」の棚に置かれていた「団塊の秋」である。
 最初に書名を眺めた時に、普通の読み方に従って「あき」と読むのか、ちょっと賢(さか)しらを出して「とき」(「此誠危急存亡之秋」(これまことにききゅうそんぼうのときなり)(諸葛亮・出師表))と読むのが正しいのだろうか。ちょっと考えた。
 最初の頁に「人生は、玄(くろ)い冬にはじまり、青い春と朱(あか)い夏を経て、白い秋に至る。暗い冬で終わるのではない」と書いていることから普通に「あき」と読むのが正解なのだろう。
 この最初の文章は私の目を開かせた。私は今まで漠然と、人の一生は春に始まり、成長の夏を経て、収穫の秋になる、そして冬は老齢であり死に至る季節、このように考えていた。
 確かに冬には樹々は葉を落としているが、翌年の芽は既に生まれている。球根の花芽も土中で春を待っている。このことから人生を四季に例えるなら、堺屋氏が書いているように冬から始めるのが素直だろう。収穫の秋に人生が終わると考えると何となく楽しくなる。
 春、夏、秋、冬という言葉から先日展覧会でみた(私が見たのは、「春」と「秋」だけだったが)ジュゼッペ・アルチンボルドの花、野菜、果物、樹木などを組み合わせて表現している肖像画、「春」「夏」「秋」「冬」の連作を思い出した。
「春」には花、「夏」には夏野菜や果物、「秋」には茸、葡萄や柿それに紅葉した葉や木材、「冬」には枯れ木が使われている。ただ「冬」には檸檬とオレンジも使われており、それは来るべき春を暗示している、とは私の勝手な解釈である。
 いずれにしても、老齢になるということは、「収穫の秋に到達することだ、そして積み重ねてきた春や夏とともに生きることだ」と考えることは、死に至る季節と考えるよりも楽しい。