久しぶりの古書店
先日は JR 東福寺駅近くに(忘れ物をとりにいくだけの)ちょっとした用事があった。そのあと、京阪電車で祇園四条駅まで行き、寺町通を左右の店を眺めながら歩いて、御池通を前にしたところで同じ通りをゆっくりと戻った。
久しぶりにいくつかある古書店を覗いてみようと思っていたのだが、その多くは昼にならないと店を開けないものだと思っていた。河原町通との間にも古書店があるということに気づかなかったので、見逃したところが多い。
それでも店主に「場違いな奴が間違って入ってきた」と思われるのが恥ずかしく、平積みの本も棚にある厚い本も、ことさらじっくりと選別するような風で時間をかけて歩いた。狭いので歩きづらいが、店主が座っている奥付近はすっと通り過ぎた。手に取らず、背表紙だけを真剣に眺めていく演技に「どういったものをお探しで?」などと声をかけられてはと、ありえない心配をして。
久しぶりにいくつかある古書店を覗いてみようと思っていたのだが、その多くは昼にならないと店を開けないものだと思っていた。河原町通との間にも古書店があるということに気づかなかったので、見逃したところが多い。
結局入ってみたのは2軒だけだった。一つは宗教に関する本だけを置いている店で、もう一つは美術や古書画が多かった。安くてこれはと思うものがあれば買おうと考えていたが、あてが外れた。
それでも店主に「場違いな奴が間違って入ってきた」と思われるのが恥ずかしく、平積みの本も棚にある厚い本も、ことさらじっくりと選別するような風で時間をかけて歩いた。狭いので歩きづらいが、店主が座っている奥付近はすっと通り過ぎた。手に取らず、背表紙だけを真剣に眺めていく演技に「どういったものをお探しで?」などと声をかけられてはと、ありえない心配をして。
実は、宇田智子著(高野文子・絵)の「(増補)本屋になりたい」を読んで、古書店巡りをしたいと思っただけだ。若い頃は、京都にはこんなに本屋がある、古書店もいっぱいあると感激していた。
東京で全国チェーンの新刊書店・ジュンク堂に勤めていた宇田さんが沖縄の支店に異動し、9年目にそこを辞めて、いまは沖縄でひとりで古本屋をやっている。失礼なことに、沖縄で古書店を営んでいられるというのが不思議だった。そんなに売れるものなのだろうか。本のタイトルには「この島の本を売る」と添えてある。
あとがきの中で、増補改訂版では本文を「ですます調」から「である調」に書きかえたことに触れている。
「ですます調をやめたのは、ただ恥ずかしかったから。プリマー新書の読者である(はずの)若い人たちにおずおずと話しかけているみたいで、とてもこの調子では書き続けられないと思い、直した。それによって、内容もひとりごとに近づいたような気がする。
なるほど、私は感じたこともなかったが、敬体と常体では、書き手にそういう違いも意識させるものなのだろうか。
末尾にある、小野政嗣さんの次の解説「本屋さんの余白」だが、残念ながら、私は書店に関する全体像までは理解できなかった。
この本は、『増補 本屋になりたい』というタイトルにふさわしく、本屋という職業の実際的な部分(新刊書店の業務、本の流通の仕組みと「再販制」、古書の買取と査定の方法、本屋の棚の作り方、古書組合の活動、「沖縄県産本」が示すような沖縄県独自の出版事情など)についてわかりやすく伝えてくれる …
電子書籍について書かれているところで「本を運んで並べて次の人に引き継ぐという古本屋の仕事が成り立つのは、本にかたちがあるからだ。… 私が本屋でいられるのも、本が紙でできているおかげだ。たとえすべての本が電子書籍で出版されるようになっても、骨董として本を扱いつづけたい」には、なるほどと思う。
宇田さんの印象は、人に話すよりは人の話を聞く方が好きなタイプなのかなと思った。
お客さんが帰ったあと、急いでメモをとる。すでに聞いたうちの半分くらいは忘れてしまっている。このときどんな言葉を使っていたっけ。こんな言いまわしではなかったけどな。思い出そうとしても自分の語彙にない言葉は出てこない。結局、要約か翻訳みたいなメモになる。内容よりもむしろ話し方がおもしろかったのに、といつも思う。
私は最近とみに忘れっぽくなり、人の話を聞いているときにポイントだけはメモしておきたくなることが多い。宇田さんの「自分の語彙にない言葉は出てこない」に、そのせいもあるのかと思ったりする。