「日本エッセイ小史」

「日本エッセイ小史」

麻(2025年11月12日)

メランポディウム(ミリオンゴールド)

 最近では大部の書物を読むことが少なくなり、エッセイや随筆あるいはそれらに類するような比較的短くそして易しく読める書物を手に取ることが多くなりました。視力の衰えが原因だと思っていますが、もっと正確に言えばいろんな意味での脳の力が衰えた結果でしょう。
 このようなことを考えながら次に読むべき本を探していた時に、“エッセイスト”を自称し、「三十年余、エッセイを書いている」酒井順子さんの「日本エッセイ小史」(講談社)を知りました。副題は「ひとはなぜエッセイを書くのか」です。

 著者名やタイトルは忘却の彼方ですが、その昔、過去から現在(当時)に至るエッセイと称されているいろんな範疇の作品を取り上げ、「エッセイとは何ぞや」ということについて軽妙な文体で書かれた作品を読んで以来、私の頭の片隅に「エッセイとは何ぞや」「エッセイの定義如何」という問題が(大袈裟に言えば)横たわっています。フランス語を少し齧った私は “essayer” には「試してみる、やってみる」等の意味があることを知っていますが、これを知っているからと言ってエッセイを定義することはできそうにありません。
 別に「エッセイとは何ぞや」ということを肩肘張って考えなくても、エッセイの定義を知らなくても、読書生活には何らの支障もありませんし、読書の質が変わる訳でもありません。また定義できたとしても時代が変われば定義も変わって行くことでしょう。このように考えている私ですが、酒井さんの「日本エッセイ小史」は面白そうに思えました。

 ところどころに例えば「事実が書いてあるのがエッセイであり、作りごとを書くのが小説との一般的理解」、「取るに足らない事象の中から特別な粒を見出す『あるある』系エッセイと特別な体験の中から普遍性を抽出する『へーえ!』系エッセイ」、「(書店の)エッセイのコーナーはしばしば、『エッセイ』と『女性向けエッセイ』に分かれている」など私がハッとした指摘もありました。
 また、私が漠然と感じていた「文筆の世界には、文筆家の父を持つ『娘』達が、数多く存在している」ことについても“女性とエッセイ”の章に「作家の娘のエッセイ」という節を設けて「文才は遺伝するのか、それとも他の要因があるのか…?」について多面的な考察をしています。なされている考察は多分的を射ていると私は思っています。

「エッセイの未来」の章で「旅とエッセイ」「食とエッセイ」等の分類の最後に「高齢者とエッセイ」があり、「高齢著者による、高齢読者のための、高齢者エッセイが人気です」と書き、佐藤愛子、曽野綾子(2025年没)、樋口恵子、瀬戸内寂聴(2021年没)等の名前が挙げられています。なるほどと思いながら読んだのですが、その背景にあるのは著者も言うように我が国の高齢化現象があることは間違いないでしょう。

 読み終わっての感想を一言で言えば、この「日本エッセイ小史」自体が立派なエッセイ、あるいは優れたエッセイの集積体である、ということになるでしょうか。
 読みながらこの本で触れられている書物や見解をもう少し整理し、更にきっちりとしたデータを集めて論拠を示した文章に整理すれば、立派な学術論文になるのでは、と思いましたが、そうなればこの「日本エッセイ小史」の面白さ、楽しさがなくなるに違いありません。このようなことも思ったことです。

 最後に余談です。若干冗談っぽく書きます。
 暇つぶしにChatGPT先生にエッセイの定義をお伺いしたところ、「エッセイとは、筆者が特定のテーマについて自由に思索や意見を述べた散文形式の文章です。主観的な視点で書かれ、日常生活や哲学、社会問題など幅広いテーマを扱います。形式に制約が少なく、個人の感性や考えを表現する手段として用いられます。説得や説明が目的ではなく、筆者の視点を共有し、読者に新たな気づきや共感を与えることを重視します」と教えて下さいました。
 私は、エッセイとは「俳句、短歌、詩、小説、学術論文、ニュース記事以外の文章」と定義することもできるのではと考えたりしています。