写真家の文章 連載最終回
今年も紅葉がはじまった。暑さで枯れてしまったり、傷みのある部分もあるけれど、総じて美しい。数枚の写真を撮った。
写真を撮る頻度が高いがゆえの感想だろうか。
カメラのファインダーをのぞいているとき、目の前の見えているものに集中する。そのときの氏は画面上の構成や処理をいかにするか懸命になる。表面の処理にばかり気を取られ、現実から遠ざかってしまう危うさがあると言う。
「写真家は観察力があって、物事をよく見ているから、文章もおもしろいものになる」「写真家の人って文章もうまい人が多いですよね」と多数の方に言われたそうだ。文章を書いた写真家の金川氏の連載が最終回になった。月刊の文芸雑誌を時折拝読していた。私も氏の書く文章に惹かれていた。今回は最終回なので、連載への感謝や感想が書いてあるように思う。氏は写真家として写真を撮ることが文章を書くことに本当にポジティブな影響を与えているのかは、よくわからないところがあると考察する。
まず、写真家と言われる人でおもしろい文章を書く人たちはたくさんいると思う、と認めている。そこで氏は自身はいかにと思う。写真家でありながら、物事をちゃんと見ていたり観察したりしているようには思えないそうだ。むしろ見ることそれ自体をおろそかにしているのではないかと不安を抱えているようだ。
写真を撮る頻度が高いがゆえの感想だろうか。
カメラのファインダーをのぞいているとき、目の前の見えているものに集中する。そのときの氏は画面上の構成や処理をいかにするか懸命になる。表面の処理にばかり気を取られ、現実から遠ざかってしまう危うさがあると言う。
写真は一枚の静止したイメージにすることで「見るためのもの」「見やすいもの」「見映えのするもの」に変えてしまう。氏は写真に加えてけっこうな分量の文章も掲載する。写真は人にストレートに届くのか、写真はよくわからないものととらえているフシがあり、並列して添える言葉のほうが信じられるもの、見る人に届くものであると言葉の位置付けをする。言葉は自分を構成する要素であり欠くことができないもの、言葉で表現することは「産みの苦しみ」が伴う。それに対し、写真を撮ることは心身共に健康的だそう。言葉で表現できる可能性が大きい分、写真での表現は限定的(現実)と比較をしている。写真の芸術表現の難しさも認めたうえでのことであろう。
氏は基本の芸術表現は文学だと心のどこかで思う。そのような垣根のない私は、これから写真展などで写真を見るときには、言葉が並列してあればしっかり読もうと思う。写真家の方々の文章は心にひびく。例えば、知らない土地の写真。文章が説明であれば重要だ。解説にもなる。そこに存在した証しを言葉にして添えるとき、生き生きとした言葉になるはずだ。写真家は画面を構成するとき、文章も同時に構成しているのではないか。だから、写真家の文章は素晴らしいのだろう。