本の処分

本の処分

麻(2026年2月25日)

 私が購読している新聞には「朝晴れエッセー」と題する読者のエッセーの投稿欄があります。毎日500字程度の文章が朝刊第一面の最下段に掲載されています。そして毎月1回月間賞作品1編と話題にのぼった作品3編が、選考過程を述べる文章と共に特集頁の全面を使って再掲されます。

 その中に「誤算だけど」という65歳の女性の文章もありました。その内容は「創業65年の卵卸商を廃業したので倉庫が空いた。本好きの主人が幼少期から買いだめた本が母屋の蔵に1万5000冊ある。もったいなくて捨てられない。そこで古物商許可証をとり古本屋を開業することとした。冷暖房完備、空気清浄機設置、ソファや机もある。学校帰りの子供たちが寄ってくれるかと思いきや来ない。近所の御婦人方やママ友たちが『井戸端会議に場所貸して』と言ってくれるかと思ったけれど来ない。近くのカフェのお客が帰りに寄ってくれるかと思いきや来ない。あーあ」と書きつつ「今はいろいろなジャンルの本に囲まれた生活で、毎日どれを読もうかと探すワクワク感で楽しい」というものでした。
「(この)エッセーを手に、お店を訪ねるお客さんがいるといいですね」とは選考委員の一人の言。

 本の処分は確かに難しいものです。本を処分するとその後の自らの(かつて読書界を風靡した言葉である)知的生活にも影響を与えそうでちょっと躊躇します。
 このようなことを考えていたら書籍編集者がどこかで書いていた次のような言葉を思い出しました。曰く「第一線を引退された大学の先生方のその後は二つに分かれます。一つは引退後も現役時代と変わらず執筆され、世間で活躍されている方、もう一つは悠々自適の生活をされている方。その違いは前者は引退後もしっかりとした蔵書群の保有を継続されている方、後者はそれらを処分された方」
 このような見方、意見を聞くと、自分の頭の一部にもなっているような蔵書の処分は躊躇われます。「今更こんな小さな活字の本は読めない」「場所を取るだけの邪魔ものだ」と思いつつも「このことについては確か、あの本にデータと共に書かれている筈だ」「いま世間で問題になっているあのことについては、もう何十年も前にあの本で〇〇氏と○○氏が議論をしていた」などと(大袈裟に言えば)一冊一冊に思い出が重なっています。確かにあることを調べようとし書庫に入り周りを見回しますと「当たらずとも遠からず」程度に蔵書の中にある関係のありそうな本を思い出します。勿論、いつ買ったか、なぜこのような本を買ったのか、どのような内容だったか、を全く思い出せないものも数多くあります。

 あるときテレビ画面で、私がその著者の(専門書を除いて)ほとんどすべての著作を持っている学者が(大袈裟に言えば)生涯をかけて構築した知の殿堂たる蔵書群の一部をチラッと見る機会がありました。落ち着いた光で照らされたそれは息を飲むほど素晴らしいものでした。これならいろんな本が書ける筈だと思うと同時にこれら蔵書の将来、行く末が気になりました。大宅壮一の膨大な雑誌コレクションを引き継いだ大宅壮一文庫(現在では年間10万人の利用者があるといいます)のような将来があれば、とも思うのです。

 つい先日、私が勤務していた会社の同じ部門に属していたOB、OGの懇親会が開かれました。そこでは最長老が挨拶の中で自らの書籍の整理について触れ「趣味である鳥観察についての専門誌の40年間のバックナンバーがあるが、これらを趣味の会に寄贈することとした。幸い場所を提供して下さる方があり、これらが私の名前を冠した〇〇文庫として保存されることになった」と嬉しそうに話されていました。

 しかし、現実は厳しいものです。年齢は確実に進みます。何も考えないでいますと、将来手元にある書籍は一般ごみとして処分されることになります。「今の内に」と思っても近くにあった古本屋は全て廃業しましたし、古書を扱う大手チェーンの店へ持ち込んでも0円あるいは1円の査定でしょう。
 と言うことで気が向いたときにその時点で不要だと判断した書物を100冊単位で処分(正確には資源ごみとしての処分)をしていますが、なかなか「気が向きません」。