「教養としての上級語彙」

「教養としての上級語彙」

啓(2023年10月11日)

 その人物紹介に博覧強記との修飾語がつく評論家宮崎哲弥氏の「教養としての上級語彙」(新潮選書)が近々出版されることを知ったのは Podcast で聞いていた東京の放送局のラジオ番組からだった。そこでは「単に言葉を並べその意味を明確にするだけでなく、ワンランク上の言葉遣いを求める書物」と言うような言葉で紹介されていた。
 さらに著者が「ノートに中学生の頃から書きつけてきた1万語から厳選された 500 余語についてその意味と用例が生きた文章のなかで説明されている」との付言があった。
 このような経緯もあり、この本は出版直後に手に入れた。
 そこには「本や雑誌、新聞を読んでいて意味も発音も分からない言葉があった場合には、漢和辞典や国語辞典で意味を調べ、当初の書籍や雑誌や新聞に立ち戻り、文章全体を理解することになるが、それでは『理解語彙』が増えるに留まる」との趣旨の文章があり、次が続く。

(調べた)この言葉はまだ能動的に使えない。「使用語彙」ではない。未だ自家薬籠に収まっていないのだ。その後何度かその言葉に出会い、幾つかの異なる用例に触れて、反復的に学習がなされ、やがて「使用語彙」に耐える精度に達する。読書量と語彙量、とくに「使用語彙」の量に強い相関関係が認められるのは、こういう仕組みだ。

 この見方に全面的に賛成する。
 選ばれた上級語彙を上級語彙を使いながら説明している文章がまた興味を引く。例えば「不言実行」について、その意味の説明に続けて、

 この「不言実行」こそが日本人本来の行動の原則であり、「有言実行」なる新しい四字熟語の定着は、何事によらず、まず〈事挙げ〉しなければ気がすまない近年の日本人の傾向を映し出している、などというもっともらしい論評を見掛けることがある。しかし「躬行(きゅうこう)」のごとく、伝統的な語彙のなかにも「有言実行」と同様の意味を持つ語があることを〈看過〉した議論だ。

 と、事挙げ、躬行、看過という上級語彙を使って不言実行、有言実行に関する文章を書く。
 ひもとく(繙く、紐解く)についても「本を開いて読むこと、書物で調べて明らかにすること」との説明に続いて

 かつて和本は痛みを防ぐため「帙(ちつ)」と呼ばれる厚紙に布を貼った丈夫なカヴァーで覆われていた。このカヴァーが紐で閉じてあったために、書を読むにはそれを解かねばならなかった。これが転じて〈紐解く〉即ち「書物を読む」ことになった。

 とその由来を説明するとともに、多くのキャスターやアナウンサーが何の「ひも」を解くのかわからないままに「さあ、事件の謎をひもといてゆきましょう」「次のコーナーでは、この姉妹の隠された素顔がひもとかれます」と言っていると、やんわりと皮肉を書いている。
 一世を風靡した「忖度」については「『忖度』という語の運命」の小見出しのもと

〈忖度〉という熟語の運命も奇妙な成行きを辿った。 2017 年に持ち上がった、いわゆる「森友学園問題」にまつわって新聞の政治面やニュース番組などでこの言葉が盛んに取沙汰されるようになるまでは、一般にはこの語の意味はおろか、読み方すら碌に知られていなかったのだ。
 と書き、最後に「私は時折、使っていたが」と書いている。

 私もこの「忖度」という言葉は昔から使っていた。ただ、現在では手垢のついたこの言葉、何か特定の色がついてしまったように思われるこの言葉を使うことは殆ど無い。ちょっと違うなあと思いながら「慮り(おもんぱかり)、推察、推量」などと書いている。
 この本を熟読することにより、著者により上級語彙として選ばれた言葉について意味の理解だけでなく、単に本を読むだけではなかなか身につかないこれら語彙を効果的・効率的にかつ正確に自らの使用語彙化することができそうだ。そうでなくても少なくともその一助にはなるだろうとの期待を込めて楽しく読んだ。
(追記)  この文章を書いた何日か後の 2023 年2月2日付読売新聞朝刊に著者・宮崎哲弥氏のインタビュー記事が掲載されていた。そこで氏は、次のように述べている。

 人は言葉によって考え、存在を認識する。全て言葉に絡めとられる。言葉を単なる道具だと甘く見ない方がよい。極論すれば、社会問題、政治問題に対して、日本人がかなり平板な思考しかできなくなってきている一つの要因は、語彙の衰退にあると思っている。