路上の文字
今回は「本とわたし」ではなく、本を構成している文字に関し「路上の文字」と題して最近感じていることを書く。
地下鉄の梅田駅やJRの大阪駅では乗降がスムースに行われるよう、プラットフォームの降車スペース(停車する電車のドア前のプラットフォームの個所)にその旨を大きく表示し、乗車する人はその左右に並ぶようこれもはっきりと表示している。乗車客は指定された場所に並んで降車客が降りるのを待ち、その後整然と乗車する。かつての降車客と乗車客が雑然と、また我先にと行動していた情景とは大きく様変わりしている。これは乗降客の成熟もさることながら、プラットフォームの表示による効果が大きいのではないか、とそのアイデアに感心した。
これは久し振りに見た梅田駅や大阪駅の情景である。最近では繁華街に顔を出すことも少なくなったが他のターミナル駅でも同様なのだろう。
また、外国人観光客の便に資するためだろう大きく案内表示が書かれているコンコースも目に付いた。
これらの表示が極めて有効であり便利だとは思いつつも、私はこれらの表示にちょっとした違和感を覚える。それは電車に乗るためには必然的に行わなければならない“足で文字を踏みつける行為”が私の気持ちにはぴったりとはこない、私の意識とは懸け離れているためである。
子どもの頃から「文字というものには何か神聖な力が宿っている」と感じており、その結果「文字を足で踏むなどは論外の行動である」と意識し、それは老齢になった今ではより強く心に思っているからである。
私は幼かった頃から畳の上に置かれている本や新聞紙を跨いで通るような行動はしなかった。ましてそれらを足で踏みつけるような行為はしたことがない。家族の誰かに注意された結果だったのか自分でそう思ったのかは覚えていない。
いずれにしろ私は通路に書かれた文字を踏みつけて歩くことは不作法というより文字を汚すような行為だと感じ、思っている。通路の場合は、避けて通ることもできるが、乗降場所に大きく一面に書かれている文字を踏まないという頑なな姿勢では電車に乗ることも出来ない。
現実と理想の狭間で困り果てた私は、表意文字は踏まず、表音文字であるアルファベットだけを踏んで乗降車することにより、心の中で折り合いをつけている。
地下鉄の梅田駅やJRの大阪駅では乗降がスムースに行われるよう、プラットフォームの降車スペース(停車する電車のドア前のプラットフォームの個所)にその旨を大きく表示し、乗車する人はその左右に並ぶようこれもはっきりと表示している。乗車客は指定された場所に並んで降車客が降りるのを待ち、その後整然と乗車する。かつての降車客と乗車客が雑然と、また我先にと行動していた情景とは大きく様変わりしている。これは乗降客の成熟もさることながら、プラットフォームの表示による効果が大きいのではないか、とそのアイデアに感心した。
これは久し振りに見た梅田駅や大阪駅の情景である。最近では繁華街に顔を出すことも少なくなったが他のターミナル駅でも同様なのだろう。
また、外国人観光客の便に資するためだろう大きく案内表示が書かれているコンコースも目に付いた。
これらの表示が極めて有効であり便利だとは思いつつも、私はこれらの表示にちょっとした違和感を覚える。それは電車に乗るためには必然的に行わなければならない“足で文字を踏みつける行為”が私の気持ちにはぴったりとはこない、私の意識とは懸け離れているためである。
子どもの頃から「文字というものには何か神聖な力が宿っている」と感じており、その結果「文字を足で踏むなどは論外の行動である」と意識し、それは老齢になった今ではより強く心に思っているからである。
私は幼かった頃から畳の上に置かれている本や新聞紙を跨いで通るような行動はしなかった。ましてそれらを足で踏みつけるような行為はしたことがない。家族の誰かに注意された結果だったのか自分でそう思ったのかは覚えていない。
いずれにしろ私は通路に書かれた文字を踏みつけて歩くことは不作法というより文字を汚すような行為だと感じ、思っている。通路の場合は、避けて通ることもできるが、乗降場所に大きく一面に書かれている文字を踏まないという頑なな姿勢では電車に乗ることも出来ない。
現実と理想の狭間で困り果てた私は、表意文字は踏まず、表音文字であるアルファベットだけを踏んで乗降車することにより、心の中で折り合いをつけている。