「言語学バーリ・トゥード」

「言語学バーリ・トゥード」

啓(2023年11月22日)

「言語学バーリ・トゥード」(副題([Round 1、AIは『絶対に押すなよ』を理解できるか」](東京大学出版会)は、かなり読み進んで、どういう種類、性格の書物なのか、言語学の何についてどのような切り口で書かれた本なのかが分かった。
 著者・川添 愛氏については奥付では作家とあるが、前書きには言語学を専門とする博士であり人工知能の分野にも少しいたこともあり、同時にプロレス愛好家でもあると書かれている。
「バーリ・トゥード」は、ポルトガル語で「何でもあり」の意味という注があり、ルールや反則を最小限にした格闘技の一ジャンルで、「言語学バーリ・トゥード」という名は、担当者が著者に「何を書いてもいいですよ」と言ったことに由来するとある。
 ということでこの本は言語学についての諸々の話題、テーマを幅広く取り上げ、テーマ毎に参考文献も書かれており、結構面白く読んだ。
 例えば副題にある「AIは『絶対に押すなよ』を理解できるか」については「意味(各単語の辞書的な意味や文そのものが表す内容)」と「意図(単語や文章に載せて話し手が聞き手に伝えたいこと)」の例としてこう書いている。

 分かりやすい例を挙げよう。ダチョウ倶楽部・上島竜兵氏の「絶対に押すなよ!」である。「熱湯コマーシャル」でおなじみのこの台詞は、ここで言う「意味」と「意図」が正反対になっている例だ。この台詞の文字どおりの「意味」は「(自分を)押すな」であるが熱湯風呂のふちでこれを口にする上島氏の「意図」が「押せ」であることはあまりにも有名である。

 私はこのコマーシャルを知らないが、著者は、「AIにとっての問題は、『意図を特定するための手がかりが、言葉そのものの意味の中に入っていない』ということである。つまりAIにいくら言葉そのものの意味を教えても、それだけでは意図をきちんと推測するためには不十分、ということだ」と説明し、AIにとっての「意味と意図」と人間にとっての「意味と意図」が必ずしも一致していないという。
 確かに、意味は分かるがその意図が意味とは異なっている文章もありそうだ。この種の文章を読まされるAIはどのような対応、反応をするのだろう。
 ユーミンこと松任谷由実の「恋人{は/が}サンタクロース?」の項では、自らが長い間「恋人はサンタクロース」と間違って覚えていたこと(正しくは「恋人がサンタクロース」)から論を進め、「は」は旧情報に付き、「が」は新情報に付くという情報の流れに従った「直観的に分かりやすくて実用的なため、広く用いられている」と説明している。
 具体的にはこうである。

 この歌の歌詞において、「サンタクロース」という言葉は序盤に導入されているため、サビの「サンタクロース」は旧情報だ。そして、サビで「サンタクロース」と関連づけられる「恋人」は、ここで新規に導入される新情報だ。もし、ここでサビの歌詞を「恋人はサンタクロース」にすると、「は」の性質上、「恋人」が旧情報として提示されることになり、そこまでの情報の流れから見て不自然である。文脈にあった情報の提示の仕方を考えるならば、「恋人がサンタクロース」のように、「恋人」を新情報として提示する歌詞が選ばれてしかるべきなのである。

 ただ、この説明の後に、「『は』と『が』の違いというのは、言語学においては、そこに足を踏み入れたが最後、その後何十年も出られなくなる底なし沼の一つだ」と、この問題が難問であることを示唆している。
 そしてその上で「AはBだ」に対しては五種類の解釈、「AがBだ」については四種類の解釈を区別している論文の存在もするという。そして「A{は/が}Bだ」という構文はシンプルであるが、「あなたの恋人が言語学者だったら……頼んでもいないのに分析を始め、夜通しあなたに自説を語りかねない」と説明している。
 私たちが無意識に使っているこれらの表現については場合によっては意図と反対の意味に解釈される恐れもあることを例を挙げて示している。
「本当は怖い『前提』の話」の項では、「(キムタク主演の)警察学校の生活をリアルに描いたドラマ『教場』」(私はこのドラマを見ていないし、放映されていたことすら知らない)の一場面をスタートに、ある事実を決定事項とする前提を利用した誘導尋問に論を続け、ナンパ術の本にある記載にも触れる。そしてこの種の前提の利用は「日常の何気ない会話や仕事のメールなんかにも潜んでいる可能性がある」というのである。
 さらに、「ただの主張を前提として述べると周知の事実のように聞こえ、疑われにくくなる」という効果について述べ、その例として「言語学は儲かる!」というタイトルの本よりも「なぜ言語学は儲かるのか!」のタイトルの本の方が手に取ってしまう人が増えると思う、という。確かに後者では「言語学は儲かる」という単なる意見、主張が周知の事実にされている。
「『前提』には、私たちの無意識というか、こころのスキマにするりと入り込むような怖さがある」という結論である。
 なお、副題にある「 Round 1」は多分、第一巻の意だろう。
(追記)
 この文章を仕上げてから半年ほど経った 2023年5月14 日付読売新聞朝刊の「空想書店」の欄で、店主である広瀬友紀東京大学教授が「店主の一冊」として「言語学バーリ・トゥード」を挙げ、この本について「言語学に関心ある人向け良書は数多あるので、言語学に関心ないという人にあえて渡して笑わせたい本を挙げた」と書いているのが面白かった。